
【末廣酒造】歴史を守り、時代を攻める— 会津から世界へ、日本酒の未来を切り拓く蔵元の物語
福島県・会津若松に蔵を構える末廣酒造は、歴史ある老舗として知られつつも、ただ伝統を守るだけにとどまらない革新的な取り組みを続けてきました。
ここ数十年にわたり日本酒を取り巻く状況は大きく変化し、かつての等級制度の廃止や吟醸酒ブーム、さらに近年では多くの酒蔵の海外進出など、業界に転換期が訪れています。
その変革の只中にありながら、常に最前線で挑戦し続ける姿こそ、末廣酒造ならではのスタイルと言えるでしょう。
今回は、末廣酒造の新城会長が語る貴重なエピソードをたどりながら、同蔵の魅力、そしてその革新的な精神に迫ります。
「守る」より「攻める」家風
末廣酒造は江戸時代に創業し、会津で長年酒造りを続けてきた老舗ですが、その代々の当主には「何代目の守り」ではなく、むしろ「新しいことに挑戦する」気風が受け継がれてきました。新城会長も、新技術や新市場へのアプローチを積極的に仕掛けてきたのです。
その背景には、先祖代々が築いてきた「チャレンジこそが家業を次の時代に繋ぐ」という信念があります。とりわけ昭和から平成にかけての激動の日本酒業界において、末廣酒造は“次を読む力”と“行動の早さ”を武器に、誰もやったことのない試みを率先して行ってきました。伝統とは過去の継承だけではなく、新たな価値を生み出すことでさらに育まれる――そんな考え方こそ、末廣酒造を語る上で欠かせないキーワードです。
「自分だけ良ければいい」は、末廣の哲学にない
末廣酒造には、会津地域全体を底上げしようとする「共存共栄」の姿勢があります。かつては日本酒に特級、一級、二級といった等級制度が存在し、金賞を獲得できるのは全国新酒鑑評会などで評価されるごく一部の酒蔵だけでした。
当時、末廣酒造は吟醸造りの技術をいち早く導入し、目覚ましい成果を上げます。その過程で欠かせなかったのが、兵庫県産の最高峰酒米「山田錦」です。ところが、当時は福島県内で山田錦を栽培している農家はほぼ皆無。新城会長が兵庫の農協に幾度もお願いに通い、ようやく手に入れた希少な米でした。
しかし、その貴重な山田錦や吟醸造りのノウハウを末廣酒造は自社だけで独占せず、他の酒蔵に「分け与え、教える」道を選びます。そこには「うちだけ金賞を取っても会津全体の評価が上がらなければ意味がない」という先代(前当主)の考えがあったのです。こうして始まった、厳しい意見交換をしながら互いの酒を磨き合う場が、後の「金取り会」や「清酒アカデミー」に繋がっていきます。
当初は5社が集まり、あえて他蔵の酒を「ボロクソ言う」ほどの本音トークを重ね、技術を高め合いました。表面的な「いい酒ですね」という社交辞令を捨て去り、科学的かつ感覚的に問題点を指摘し合うことで、より洗練された吟醸酒造りが可能になったのです。
この活動がやがて会津全体の醸造レベルを押し上げ、多くの酒蔵が金賞を連続受賞する土台を築きました。自分たちの成功を“秘密のレシピ”として囲い込むのではなく、惜しみなく共有する。その“共存共栄”のスタンスは、末廣酒造の大きな魅力といえます。
海外進出への挑戦と挫折、そして成功
末廣酒造の革新性は国内だけにとどまりません。まだ大手メーカー以外がほとんど手を出していなかった時代に、果敢に海外市場へ打って出たことも特筆すべきエピソードです。
パリの寿司店を日本の地酒メーカー複数社で買い取り、そこで地酒を販売するという大胆なプランを実行しました。しかし、現実は甘くありません。コンテナ輸送中に高温となる海域を通過することで酒が劣化(“熟れ”=ひね)し、黄味がかった色合いになる問題に直面したのです。
続くロンドンでも寿司の質の問題や料理とのマッチングへの意識が日本とはまったく異なり、現地の嗜好に刺さらなかったといいます。
それでも諦めず、辿り着いたアメリカでは、冷蔵管理さえ整えば日本酒の味を理解してくれるシェフやソムリエと出会い、少しずつ市場を拡大することに成功しました。まさに“当たって砕けろ”とも言える挑戦を繰り返しながら、海外での販路を地道に築いていった末廣酒造の姿は、守りの姿勢ではなく攻めの姿勢を貫いてきた証でしょう。
ジェトロの輸出支援体制を動かした交渉力
海外輸出を本格化させる上で大きなネックだったのが、国の支援体制の不備でした。貿易振興機関であるジェトロ(日本貿易振興機構)が、当時は輸出のサポートではなく輸入をメイン業務としていたため、中小の日本酒メーカーが海外販路を開拓するうえで支援を受けることは難しかったのです。
しかし、新城会長は農林水産事務次官に直接談判し、日本の農産物輸出を強化する必要性を訴えます。これをきっかけにジェトロは半年後に輸出支援体制を整え、今日の海外展開を後押しする組織へと変わっていきました。「自社のため」だけではなく「日本酒全体のため」に、制度そのものを動かしてしまう――ここにも末廣酒造の先見性と行動力がはっきりと表れています。
変わり続けるからこそ“末廣らしさ”がある
末廣酒造が紡いできた歴史は、単に自らのブランド価値を高めるためのものではなく、会津や福島、ひいては日本全体の酒文化を発展させるための“協力と挑戦”の物語でした。
自蔵だけでなく他の蔵元と技術を共有する姿勢、海外に飛び込んで失敗を恐れずに市場を開拓しようとする行動力、行政や公的機関さえ巻き込んで輸出体制を根本から変えてしまう大胆さ、これらすべてが末廣酒造の“スタイル”です。
古くて新しい、そして地域や業界の垣根を超えて挑戦し続ける末廣酒造。彼らの姿勢は、単なる“老舗蔵元”という言葉では収まりきらない躍動感に満ちています。変わり続けるからこそ、“末廣らしさ”は失われない。その最先端を行く会津の酒造りを、これからも見逃せません。これからも日本酒の新たな楽しみ方や、地域に根差した酒造りの本質を教えてくれるはずです。